発信者の意図を加えず「無編集で《ありのまま》を見せる」と言うと、なんだか魅力的に聞こえる。だが、ときにはそれは、動画を見てくれる相手の時間を必要以上に奪うことなのだ、という申し訳なさ(罪の意識)を感じることも必要だ。
文章だったら、読み手は《斜め読み》で飛ばしながら要点を拾って行くこともできる。映像でも、再生機の機能によっては、音声付のチョイ早回しという見方も可能だったりするけれど、それでもたかが知れている。文字の斜め読みほどには、所要時間は短縮できない。やはり冗長な部分や、情報がトッ散らかっている部分は、きちんと整理整頓しよう。編集者の色付け、歪みを極力配した、いわば機械的お片づけ編集というものを、ぜひ練習しよう。
「編集は色がつくから排除」ではなく、「色のつかない編集の追求」を。100%恣意性を取り除くことは不可能だけど、《ありのままに限りなく近いコンパクト》の追求を。―――今日の毎日女性会議で、参加者たちの試作品を見ながら繰り返したアドバイスを約言すれば、そういうことだ。
どうやって?という各論は、また別稿で。
とりあえず、ネット生動画配信全盛で一部に生まれた画一的な≪編集=悪≫という勘違いは、今捨てよう。